窪美澄著書「さよならニルヴァーナ」を語らせてもらう。

窪美澄著書「さよならニルヴァーナ」を語らせてもらう。

表題の件を語る前に、購入した経緯を語ろうと思う。

まずはこの写真。⇓

石田衣良さんのIWGPシリーズⅣの「電子の星」のジャケット。

⇓はそのIWGPの最新刊です。

 

 

 

続いて、スピッツさんの「フェイクファー」というアルバムのジャケット。

 

 

どちらも、自分の感性や本能が咄嗟に反応したため、地団駄を踏む理性を飛び越えてジャケ買いをした訳なのだが、共通点をうまく言語に導き出すことができないでいる。

ちなみに、今まで直感でやべぇ!と思ったモノは全て良いモノ!の確率が高い。それだけ、目が長けているのかと言われれば絶対にNO!なのだが、自分の中で直感を大切にするという根拠になっているのは間違いない。

 

いま、書きながら言語化を試みているのであるが、「女の子」しか共通点がないような気がして、自分のことが謎に思えてしょうがなくなってしまう。

ちなみに僕は可愛い清楚な子よりは、何かが研ぎ澄まされている女性が好きなのだが・・。

 

一つだけ納得しているのは、芸能人のこういう写真があったとしたら絶対に見向きもしないということだ。

知らない素人?モデル?が映る雰囲気がジャケ買いを誘発させるくらい好きなのだろうということだ。カメラマンによるものだろうか・・。

思い返せば、「百瀬、こっちを向いて」もそうだったかな。

 

 

 

その頃、早見あかりさんのことを桃色クローバーを脱退した人なんて知らなくて、新人女優だと思っていたし。

とにかく、なんだかんだ言って、イラストよりも写真の方が好きなのだろう。

 

本題に入る。

時はしばらく経過して、場所は通勤途中のブックオフだったと記憶している。

またしても、ジャケ買いしたのである。それが、窪美澄さんの「さよなら、ニルヴァーナ」という小説だった。

 

 

冒頭の文章を読んで、この記事を読む人たちがどう感じるか私には分からないが、あの時の気持ちと同じだと感じたのは間違いのない事実であった。「良い!すごく良い!なんだこのジャケット!」衝動を抑えられず、直感で購入したのである。むしろ抵抗があったのは、この本が200円で置いてなかったというくらいで、そんな些細な抵抗すらもどうでもいいくらい、すぐに手に取りレジへ直行した。

 

 

本は好きである。
しかし、窪美澄さんという作家の本を読むのは、この本が初めてだった。

すぐに読み初めて、この本は少年Aを題材にしている本ということが分かった。

そして、友人が女性作家で少年Aを題材にした小説をオススメしていたことを思い出した。

おそらく、この本がそれなのだろう。

 

 

作品紹介

 

あらすじとしては、

14歳のときに少女を殺した元「少年A」としての人生を歩む青年、晴信。

「少年A」を崇拝し、ハルノブ様を崇めるサイト管理人の少女、莢。

自らの娘を「少年A」に殺され、その傷を何年も抱えながら暮らす母親。

元少年Aがこの街に住んでいることを知り、Aを題材にした小説を書こうとする作家志望の今日子。

この4人の主人公がそれぞれの主観的視点で他の主人公と交わり、人生と人生が編み込むように繋がり一冊の物語になっています。

それぞれの主人公たちは、日常の私達と同じように他人に見せられないような深い欠落のようにも似た当たり前の闇を抱えています。

特に作家志望の今日子なんかは本気で夢に向かって頑張っているけれども報われない訳で・・共感しかありません。

なっちゃんの家族なんかは光ちゃんを失ってから、想像を絶する人生を歩んでいる訳で・・。莢を娘に重ね合わせるように自宅に招き入れ、家族全員で泣いてしまうシーンはもう苦痛でしかありませんでした。

日常の苦痛からか、晴信を崇拝した結果、恋をしてしまう莢。人を殺めても、生きようとする晴信。
それぞれの地獄と地獄を結びつけた結果が終盤の物語に入っていく訳ですが、とにかくリアルです。窪美澄さんの描写センスは半端ないです。

 

以下、自分に響いた言葉です。

――昔と同じ。都合の悪い言葉が、母の鼓膜を震わせることは絶対にないのだ。――
これって経験した人が思う悪口なんですけど、こういう描写って書こうにも書けない気がするんです。表情を描写する作家さんが多いのかな・・。よくわからないけど・・。

 

――誰かの視線がなければ、僕という存在の輪郭は成り立たないし、僕という存在そのものも、この世から無くなってしまう。――
元少年Aとして生きていくことを背負う覚悟とはそういうことなのだろうと、鳥肌が立ったことを憶えている。

 

――自分以外の悲しみに目が届かない。自分のことで精一杯で。――
その当時、自分がそんな状態だったからか、俯瞰で自分を見ている気分だった。

 

――記憶の切れ端が少しでも顔を出すと、あとは数珠つなぎに僕の中から引きずり出されていく。――
思い出したくない過去ってそんな感じですよね。そんな感覚的な一瞬を言葉にする窪美澄さん。

 

少年Aを題材にしているので当然突き刺さる内容ですし、当然読者が突き刺さらなければならない物語です。
その課題のようにも似た物語を書いた窪美澄さんは本当に凄い作家だと思います。
この物語を読んで、生きるとはどうあるべきだ。生き方はこうあるべきだ。と、問うような小説ではありません。

生きている一人ひとりにみんな違った形の穴があって、それでも生きているんだよ。それでも生きるんだ。それでも続くんだよ。そういうことを著者は書きたかったのではないでしょうか。

 

読了

 

その後、2018年にドラマになった原作、薬丸岳さんの「Aではない君と」を読み(薬丸岳さんも凄いな!と思いました。)、さらに本物の元少年Aの「絶歌」という手記を読んだのですが、絶歌は言葉にするような読み物ではないと思いましたし、窪美澄さんや薬丸岳さんの少年Aの偶像と違いすぎて胸糞悪い気分になりました。

 

 

元少年Aは小説家ではもちろんありませんし比較するレベルではないことは間違いありませんが・・。なんだか、この書籍の利潤がどこに向かったとしても、このレベルの手記で書籍化出来るのは卑怯だと思ってしまいます。

ただ、この元少年Aのとった行動こそが、この作品の中で出てくる文章、

 

誰かの視線がなければ、僕という存在の輪郭は成り立たないし、僕という存在そのものも、この世から無くなってしまう。

に繋がってしまい、私の尖った感情がどんどん奥に引っ込んでしまい、どうしようもなくなってしまいます。

僕(受信側)にとって、彼の贖罪は嘘にしか聞こえないんです。

 

 

少年Aは人を殺しても生きています。

少年Aに殺された被害者遺族は心に大きな癒えることなき傷を負い、生きています。

加害者側も被害者側も、いろんな傷を負い生きています。

癒えることなんかないですし、忘れられるものでもありません。

どれもこれも、言葉にしようのない言語化不能の状態ですし、何より、殺人事件はたくさん発生していて、心を殺されるような事象がたくさん発生している訳で・・。

言葉で表現するのは、実体験した人にしか表現できないのかもしれません。

当然、このような小説をイチ個人の素人である私が読み解くのはひどく烏滸がましいことだと思います。

なんというか・・。

言葉は送信した側ではなく全て受信した側に委ねられているんだと思うんです。その受信した側の我々が言葉に置き換えた側の真意を100パーセント汲み取ることはできないと思います。

だから、汲み取る努力はできるけれど、100パーセント理解するのは不可能だと。たとえそれが生んでくれた親であったとしても。

自分で難しく展開しておりますが、この本は本当に難しい本だと思います。ただ、こんな本を創ってくれた窪美澄さんがどれだけ凄いのか。それを少しでも知って頂ければ幸いです。

 

小説家とは、送信側と受信側の、その間の空間に居座る人のことだと思うんです。

その表現を窪美澄さんは言葉に置き換えています。

(言葉に出来そうにない感覚的な事柄を言葉にしています。全ての小説家ができるわけではありません。もちろん、窪美澄さんにできない表現を他の小説家がしているわけですが・・。)

とにかく、窪美澄さんは山本周五郎さんの生まれ変わりですか?と思えるくらい人と人の感情の奥底を言葉に捉えることが出来る作家さんです。

褒めちぎってしまいましたが、さよならニルヴァーナを読んで以降は窪美澄さんにハマり、ほとんどの作品を読み、応援する作家さんとなりました。(結局、褒めちぎってしまった・・。)

 

まとめ

 

どう贖罪をすれば赦されるのか・・。そんな解決できないような事象を4人の主人公に投影させている「さよなら、ニルヴァーナ」という小説は、絶対に埋もれてはいけない本だと思います。

だから、何年もの時間が経過した今、どれだけこの記事を読む方がいてくれるのか分かりませんが、ネットという記録に私が書き込もうと思った次第です。拡散という形になるのでしょうが、読みて次第だとは思いますが、この本は読むべき小説だと思います。

苦しくても、目を背けずに読むべきだと思います。窪美澄さんの本はそういう生々しい場面が多いです。

ただ、窪美澄さんの本はあんまり中古に出回ってないんですよね・・。あるところにはあるんでしょうが・・。遠回しになりましたが、それくらい根強いファン(私)がいるから出回らないということだと思います。

 

 

本は心を成長させる

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