釣りの存在とは何か。釣り部忘年会を終えて。

釣りの存在とは何か。釣り部忘年会を終えて。

釣りとは何だろうか・・。

釣りの本質について考えをめぐらせる。

自分自身が時々考えてしまう事象であり、確固たる結論にたどり着かない自答の一つである。

 

なんだか「生きるとは・・」という永年の自問自答と同じような性質の問いの一つではないだろうか。(思春期か!!)

 

そんな自問自答の末の結論が、どんな答えであったとしても、それが答えとして無形の形になればいろんなことが単純になって、結びついて、今よりも生きやすくなるものだと思うが、「答え」が見つかるということは、そこで終わってしまうものではないかと捉えてしまう自分がいる。

 

「俺という人間はこういう人間だ」

「僕はそんな人間です」

「私はそういう人ですから」

 

そう自分の尺度を決めつけてしまうと、そこから先が見えなくなるのが怖くなる。

成長が止まってしまうような、思考の伸び代を自分でくしゃくしゃに丸めているような、そんな扉を自ら閉じているような。そんな感覚になってしまい、時々出会う「俺はこういう人間です。(だから俺を理解してください)」というタイプに遭遇すると、この人とはきっと馴染めそうにないと思って先入観が先行してしまう訳である。

 

それが上司なら尚更馴染みにくい。世の中、たかが10年と少しの社会経験を通じて、基本的にそんな人が多いと推察している。(それが世の中の当たり前なのであるが、そんな当たり前に対して馴染めない自分はどこか欠落しているのかもしれない・・。むしろ、それを武器にしているのであるが)

 

自分の悪い癖ではあるが、そういうタイプの人を、このまま成長しない人なんだろうな。と決めつけてしまう訳である。

それはそれで、きっと間違いなのだろうが、そんなタイプの人間との馴れ合いの果てに自分が成長出来るかと言われればそれは結果的に反面教師にしかならず、その人との交わりによっての成長はない訳で(強要による成長は確かにある)、きっとその人は何にも変わらずに僕だけしか伸びないのである。なぜならば、その人は自分の尺度を決めているからだ。逆に自分もそんなタイプを遠ざけているのでそんな人と交わることでの成長はない訳で・・。

 

結局、自分自身が強要により成長した結果が「今」の自分になるのであるが、俯瞰するように自分を分析してみると、おそらく、自分という人間は成長している最中の自分が好きなのだろうと捉えている。

悪くいえば、永遠と自問自答を繰り返しながらモジモジとウジウジと修正修正を重ねているだけの人間なのである。(だから、ナルシティズムとは違うぞ!)

 

一つだけ分かっていることは、そんな彼らも正解であり自分も正解なのだということだ。

決してどちらも間違いじゃない。

みんな違ってみんないい。そう思わないか?

 

本質を見失っていた。今回の記事は「釣りとは何か」。から始まる忘年会についてだった。僕はいつも僕という人間を見失ってしまう。悪い癖だ。

 

話を振り出しに戻す。

 

釣りとは何か。

そんな自答の果てに答えなんて出てこないが、自分自身が楽しいと思うものの一つであることは分かっている。

 

なんだか、「釣り」と定義しただけでは、あまりにも多様性に富み過ぎて漠然とし過ぎている気がするが、ここ最近の釣りの楽しみとして「人」が含まれている気がする。

 

今までいち個人として釣りをやっていた。

特にショアではその傾向が強いのじゃないだろうか。

みんながみんなライバルだし、自分が陣取っているテリトリーを侵害してくる輩もいるし、ヤンキーは当然怖いし、下手なアングラーが時々自分の投げたラインの上をクロスするように投げたり、居付きの魚みたいな常連はいるし、とにかくいろんな人がいる。まぁそれも多様性と捉えられるけれど、個で釣りをしているからショアは限りなく個人競技なのだ。

 

個人競技を悪くいうつもりはない。個人競技のメリットは自分を研ぎ澄ますことができるからな。

 

ただ、オフショアをやっていて、自分が個人競技には向かないことが分かった。

ショアが個人競技であるならば、オフショアは団体競技だった。そういえば、僕自身もバレーボールという団体競技を愛していた。(きっと今でも愛しているだろうが、身体が動かないだろう・・。)

 

オフショアではその船に乗る釣人そのものが船と共に一蓮托生になる。

釣れればその情報を共有し、釣れなければ情報共有しながらあらゆるアプローチから結果に繋げることができる。もちろん船に乗る釣人すべてがライバルなのは間違いないが、喜びを分かち合い、嬉しさを分かち合えるのはショアとは大きく違うところだと僕は思う。

 

だから、ショアの時は雑誌のプロアングラーを敬愛するしかなかったけれど、オフショアに目覚めてからはオフショアを楽しむすべての人が頼もしいライバルでもあり、刺激になり、師匠になった。

さらに釣りが楽しくなったのである。釣りというものが、僕の人生に深く根を張ったと例えてみることにする。それくらいにオフショアは楽しい。

 

さらに、そんな人たちとの忘年会は最高だと思える。

釣行中はやはり釣りに夢中なので、いろんな持論やメソッド、哲学を聞くことはないのだが、ロッドを持っていないと、こんなにも喋るのかと思えるくらいに熱く語る。

 

先週の忘年会では来年の抱負を語った。昨日の忘年会では神様からフックを授かった。

外来魚から国内外来魚、ティラピアについても語った。

自作フックについて語り、リールのメンテナンスについて語り、スルメデスについて語り、あらゆる釣りを語った。それも笑いながら。みんなニコニコしながら。此処には相互にリスペクトがあった。

自分という空間が周りの空間に溶けて居心地が良くなる感覚。

同じ匂い。同じ色。同じ目。同じ視点。同じ認識。

オタクってこんな感じなのかな?

オタク達、めちゃめちゃ楽しいじゃないか!

 

会話しながら僕は思う。

僕は釣人が好きだ。だから釣りが好きなのかもしれない。

 

釣り部。忘年会を語る。

 

釣りとは何だろうか・・。自分自身が時々考えてしまう事象であり、確固たる結論にたどり着かない自答の一つである。

 

なんだか「生きるとは・・」という永年の自問自答と同じような性質の問いの一つではないだろうか。

 

そんな自問自答の末の結論が、どんな答えであったとしても、それが答えになればいろんなことが単純になって、結ばれて、生きやすくなるものだと思うが、答えが見つかるということは、そこで終わってしまうものではないかと捉えてしまう自分がいる。

 

「俺という人間はこういう人間だ」

「僕はそんな人間です」

「私はそういう人ですから」

 

そう自分の尺度を決めつけてしまうと、そこから先が見えなくなるのが怖くなる。

成長が止まってしまうような、思考の伸び代を自分でくしゃくしゃに丸めているような、扉を閉じているような。そんな感覚になってしまい、時々出会う「俺はこういう人間です」というタイプに遭遇すると、この人とは馴染めそうにないと思ってしまう訳である。

 

それが上司なら尚更馴染みにくい。世の中、たかが10年と少しの社会経験を通じて、基本的にそんな人が多いと推察している。

 

自分の悪い癖ではあるが、そういうタイプの人を、このまま成長しない人なんだろうな。と決めつけてしまう訳である。それはそれで、きっと間違いなのだろうが、そんなタイプの人間との馴れ合いの果てに自分が成長出来るかと言われればそれは反面教師にしかならず、その人との交わりによっての成長はない訳で(強要による成長は確かにある)、きっとその人は何にも変わらずに僕だけしか伸びない訳である。なぜならば、その人は自分の尺度を決めているからだ。逆に自分もそんなタイプを遠ざけているので成長はない訳で・・。

 

結局、自分自身が強要により成長した結果が「今」の自分になるのであるが、俯瞰するように自分を分析してみると、おそらく、自分という人間は成長している最中の自分が好きなのだろうと捉えている。悪くいえば、永遠と自問自答を繰り返しながらモジモジとウジウジと修正修正を重ねているだけの人間なのである。(だから、ナルシティズムとは違うぞ!)

 

一つだけ分かっていることは、そんな彼らも正解であり自分も正解なのだということだ。決してどちらも間違いじゃない。

みんな違ってみんないい。そう思わないか?

 

本質を見失っていた。今回の記事は「釣りとは何か」。から始まる忘年会についてだった。僕はいつも僕を見失ってしまう。悪い癖だ。

 

釣りとは何か。

そんな自答の果てに答えなんて出てこないが、自分自身が楽しいと思うものの一つであることは分かっている。

 

なんだか、「釣り」と定義しただけでは、あまりにも多様性に富み過ぎて漠然とし過ぎている気がするが、ここ最近の釣りの楽しみとして「人」が含まれている気がする。

 

今までいち個人として釣りをやっていた。

特にショアではその傾向が強いのじゃないだろうか。

みんながみんなライバルだし、自分が陣取っているテリトリーを侵害してくる輩もいるし、ヤンキーは当然怖いし、下手なアングラーが時々自分の投げたラインの上をクロスするように投げたり、居付きの魚みたいな常連はいるし、とにかくいろんな人がいる。まぁそれも多様性と捉えられるけれど、個で釣りをしているから個人競技なのだ。

 

個人競技を悪くいうつもりはない。個人競技のメリットは自分を研ぎ澄ますことができるからな。

 

ただ、オフショアをやっていて、自分が個人競技には向かないことが分かった。

ショアが個人競技であるならば、オフショアは団体競技だった。そういえば、僕自身もバレーボールという団体競技を愛していた。きっと今でも愛しているだろうが、身体が動かないだろう・・。

 

オフショアではその船に乗る釣人そのものが船と共に一蓮托生になる。

釣れればその情報を共有し、釣れなければ情報共有しながらあらゆるアプローチから結果に繋げることができる。もちろん船に乗る釣人すべてがライバルなのは間違いないが、喜びを分かち合い、嬉しさを分かち合えるのはショアとは大きく違うところだと僕は思う。

 

だから、ショアの時は雑誌のプロアングラーを敬愛するしかなかったけれど、オフショアに目覚めてからはオフショアを楽しむすべての人が頼もしいライバルでもあり、刺激になり、師匠になった。

さらに釣りが楽しくなったのである。釣りというものが、僕の人生に根を張ったと例えてみることにする。それくらいにオフショアは楽しい。

 

さらに、そんな人たちとの忘年会は最高だと思える。

釣行中はやはり釣りに夢中なので、いろんな持論やメソッド、哲学を聞くことはないのだが、ロッドを持っていないと、こんなにも喋るのかと思えるくらいに熱く語る。

 

先週の忘年会では来年の抱負を語った。昨日の忘年会では神様からフックを授かった。

外来魚から国内外来魚、ティラピアについても語った。

自作フックについて語り、リールのメンテナンスについて語り、スルメデスについて語り、あらゆる釣りを語った。それも笑いながら。みんなニコニコしながら。

自分という空間が周りの空間に溶けて居心地が良くなる感覚。

同じ匂い。同じ色。同じ目。同じ視点。同じ認識。

オタクってこんな感じなのかな?

オタク達、めちゃめちゃ楽しいじゃないか!

 

会話しながら僕は思う。

僕は釣人が好きだ。だから釣りが好きなのかもしれない。

 

せめて歌えば空は晴れるか

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