アンタレス

アンタレス

なんでもかんでも◯◯女子や◯◯ガールと付けたがる世の中で、私は間違いなく釣りガールという部類にカテゴライズされると思う。もう一度考えたけれど、間違いなく釣りガールになると思う。

いつからそんな名前が生まれたのか分からないけれど、きっと私は正真正銘の隠れ釣りガールだ。

 

パパとお兄ちゃんがバスフィッシングを教えてくれた。小学生の高学年になった頃には自分のロッドやリールをパパのお下がりで持っていたし、お兄ちゃんからもお下がりのルアーを貰ってコレクションのように飾ってみたり、気がついた頃にはブルーギルを絶対に釣る方法を知っていたし、他の女の子に比べてかなり魚と水鳥の知識はあったし、学校が休みの日は男友達と自転車でバスを釣りによく野池に行っていた。

だから、よくパパはママに怒られていたと思う。「明日菜が結婚できなかったらパパのせいだ」って言われてたかな。そんな記憶があるから、中学校では帰宅部に憧れていたけれどバレー部に入ってママの気持ちを落ち着かせたんだった。

 

バレー部に入部してすぐのことだったから1年生の春だったと思う。お兄ちゃんは中学3年生だったけれど、お兄ちゃんがアンタレスを買ったってことをパパから聞いた。アンタレスっていうリールがどれだけ凄いリールなのか、私には分からなかったけれど、パパとお兄ちゃんと私の3人で釣りに行ってた頃から、お兄ちゃんは「アンタレスを絶対に買う」って何度も言っていたから、それだけ高くて凄いリールなんだということだけは分かっていた。

そんなアンタレスに触りたかった。だけど、その頃のお兄ちゃんはパパとママにも素っ気なくて私に喋ってきてはくれなかったし、いきなり身長がパパと同じくらいに高くなっていて、今までの優しいお兄ちゃんじゃなくなった気がしてなんだか喋りにくくなっていた。

どうしてもアンタレスに触りたい私は、お兄ちゃんが学校へ行くのを待ってからお兄ちゃんの部屋に忍び込んで、お兄ちゃんがお年玉やお小遣いをコツコツ溜めて買ったアンタレスを触ったり眺めたりするのが好きだった。ゴツゴツカクカクしたタイプのベイトリールが多いのに、アンタレスっていうリールは丸くて銀色の卵のような形をしていて、なんだかリールというよりは、宇宙人のウンチっていう感じがした。こんな宇宙人のウンチのようなリールがスプーンのような軽いルアーでも遠くに飛ばすことができると思うと、やっぱり宇宙人の作ったモノとしか思えない。

 

アンタレスに触れるだけでは我慢出来ずに、一度だけお兄ちゃんにめちゃめちゃ頼み込んで近くの野池で試投させてもらえることになった。お兄ちゃんは「明日菜は絶対に傷付けるから俺もついてく」って言って付いてきてくれたのはいいけど、私がお兄ちゃんの部屋でアンタレスに触れていることを知らないお兄ちゃんは、二人で歩いて野池に向かっている時でも私にアンタレスに触れさせてはくれなかった。

野池に着いて、「バックラさせんなよ」と目も合わせずに言うお兄ちゃんの言葉なんか気にせずに私のロッドとお兄ちゃんのアンタレスを取り付けて投げてみる。最初はサミングを強めにしたから、遠くまで飛んでくれなかった。けれども徐々に投げる回数を増やしていけばどのくらいサミングをすればバックラッシュさせないか分かった。

ちょうどいいタイミングでミドリガメが水面にちょこんと顔を出した。距離もちょうどいいと思って狙ってキャストしてみた。そしたら、ルアーが着水する寸前になってミドリガメが緊急回避するように水柱を立てて潜った。もし、ミドリガメがルアーに気が付かなかったら甲羅に当たっていただろうからケガしなくて良かったと思った。もちろん、気が付かなかったらサミングで止めてたけど。

「明日菜、今狙ったん?」

そうお兄ちゃんに聞かれて、私は「うん」と言ったと思う。そしたらお兄ちゃんは

「お前が男だったら良かったのに」

って言って、タックルごと取り上げられて家に帰ることになった。私のロッド返してよ!

多分、普通の思春期の兄妹だったと思う。それまでは。

 

 

それから一ヶ月ぐらい経ったすぐだったと思う。お兄ちゃんがよく学校を休むようになった。そのあとしばらくして、お兄ちゃんが学校でいじめられてることをママから聞いてはじめてニュースでいじめっていう言葉は知っていたけれど、まさか本当にあるモノなんだと知った。しかも家族で。

ママからはお兄ちゃんに学校のことやいじめのことを喋らないようにキツく言われた。釘を刺すように、もし家でお兄ちゃんに遭ったら普通に接しなさい。とも言われた。普通じゃなくなってしまったお兄ちゃんに普通に接する方法をしらない私が選んだ方法は無視だった。といっても、お兄ちゃんは私が家で活動している時間帯はずっと部屋から出てこなかったから今まで遭うことがなかった。

お兄ちゃんが部屋に引きこもってから1ヶ月くらいして気がついたことだけど、パパやママが夜遅くまで喋るようになった。そのせいで、私はこっそりリビングのテレビで好きな深夜ドラマを観ることができなくなってしまった。お兄ちゃんのせいだ。パパとママは大声でケンカするようなことにはならなかったけれど、朝のイライラしている二人を見てお兄ちゃんのことでケンカしてたんだと思った。そんな朝はいくら中学生の私だったとしても嫌で嫌でたまらない。全てはお兄ちゃんのせいなのに。

私はあれからこっそりとアンタレスを触ることが出来なくなってしまった。

そのことがキッカケだと思うけど、今では分からないけれど、私はあれから釣りをすることがなくなって、バレーの面白さに引き込まれるように練習に集中するようになった。今さら思うことだけど、お兄ちゃんっていう存在を遠ざけたかったから何か集中できるものに打ち込みたかったんだと思う。ロッドスタンドのない私の部屋に唯一ロッドを立てることが出来た角っこの壁は、いつの間にかバレーの道具置き場になって、ロッドは押入れの奥に追いやられた。

 

そんな私は高校1年生になった。大好きなバレーで推薦をもらって全国に出場する可能性のある強豪私立高校に入学できたのはいいけれど、みんなのレベルが高すぎて部活を辞めようと考えていて、今まで過ごしていた小学校や中学校なんかと比べて一番面白くないと思っていて、さらにこれからの進路とかいろいろ考えないといけないことが増えてきて、なんだか人生って何のために生きるんだろって考えるようになって、正直参ってる。追い打ちをかけるように、部活はインターハイ前の練習がきついし、それが終わると春高の練習が始まるし、怖い3年生は春高まで引退せずに残るだろうし。それが嫌で嫌で何のためにバレーやってんだろって思ってしまって、お兄ちゃんのように通信制の高校を選べば良かったと思うようになって今、悔やんでる。特にゴールデンウィークの合宿なんか1日も休みがなくて最悪だった。来年のゴールデンウィークの想像をしただけでもぞっとする。

 

いじめに遭ったお兄ちゃんは、引きこもってから一度も中学校に行くこともなく、通信制の高校に入学したのだけど、通信制っていう私のような全日制とは違うから、ずっと家に引きこもっていて何をしているのかさえ分からない。なんだか不公平だよなって思う。私なんか、いちいち学校に行かないといけないし、朝練があるから起きるのも早いし、仲のよかった友達と離れ離れの高校を選んだからイチから友達を作らないといけないし、部活の先輩は中学の先輩と違って大きくて怖いし、顧問の先生なんかもっと怖いし、絶対にレギュラーのセッターにはなれないと思うし、とにかく毎日が嫌なことばかりだ。

それに、パパとママの機嫌もコントロールしなければならない。今まではお兄ちゃんの分まで頑張って私という人間を頑張っていたけれど、パパとママはお兄ちゃんに出来なかった分を私に何かを与えようとしていることに気がついてウザくなった。お兄ちゃんは2階の自分の部屋に引きこもっているだけなのに、お兄ちゃんはどうだったこうだったっていう過去の話をされる度に私の心の輪郭はジャングル探検用のナタのようなものでサクサクと切り落とされていくんだ。

だから、お兄ちゃんのような起伏のない環境に憧れてしまう。だけど、そんな起伏のない環境に甘えているお兄ちゃんに苛立ってしまう。憧れてはいるけれど、お兄ちゃんにはなりたくはなかった。

お兄ちゃんは通信制の高校を卒業して何に向かって歩いていくんだろうか。パパもママもきっとお兄ちゃんよりはきっと早く死ぬのに。どうしたいんだろうか。私はお兄ちゃんと一生を終えるつもりは絶対にない。いつか出会うイケメンの彼氏と結婚して、名字を変えて子供を生んで、正真正銘のこの家の人ではなくなってやるんだ。お兄ちゃんのせいで、パパもママもおかしくなっている。全部お兄ちゃんのせいだ。お兄ちゃんが全てを狂わせている。きっと私も狂っている。

狂っている私は、部活を辞めることを決めた。だけど、辞めることはママには伝えた方がいいだろうと思う。ママは1年生の親代表をしていて、3年生や2年生の親から来る連絡を20人は軽くいる1年生の他の親へ連絡したり、管理したりする役目をしていた。中学の頃もママは練習試合に欠かさず応援に来てくれたし、毎回車も出してくれていた。県大会の1回戦で負けた時、私よりも泣いていたのはママだった。普段、パートで疲れて帰ってきても、夕ご飯を作り、余白の時間で親代表の活動をするママ。とにかく疲れたくて頑張っているママ。そんなママに部活を辞めると言うのは気が引けた。いくら狂ってしまったママの娘であったとしても、狂ってしまった家族だけど、想像できる簡単な結末を考えるだけで正気に戻されて狂えなくなってしまって泣いてしまった。

ママは絶対に今よりも狂ってしまうだろう。狂ってしまったキッカケを私のせいにして、堂々と気が狂うことだろう。お兄ちゃんのせいなのに。嫌になる。ママはパパよりも嫌なものに蓋をするのが上手だと思う。だから、ママからしてみたらお兄ちゃんは自分の部屋に引きこもっているお兄ちゃんではなくて、仏壇にお供えをするような存在にでもなっているんだと思う。だから、自然と私には圧力にしかならないコミュニケーションを仕掛けてくる。

ママはお兄ちゃんを勝手に殺している。それが分かっている私はせっかくママの涙を想像して正気に戻ったのに狂ってやろうと思った。

 

再び狂ってしまった私は部屋でゴロゴロしていたけれど、押入れを開けて釣り道具を探した。

 

お気に入りのワームだけを選り好んで入れただけのワームケースを見つけて蓋を開けると、昔と同じ匂いがした。だけど、ツルツルしていたワームの表面はヌルヌルベトベトしているし、質感が昔と違う気がして少しだけ強く握ってみたらボロボロと崩れた。ワームフックを刺してみるとやっぱり刺さった箇所の周辺がボロボロと砕けて使い物にならなかった。パパのお小遣いで買ってもらったワームたちは見た目はワームとして成り立っているけれど中身は腐れている。まるで私の家族みたいだって思った。

パパのことを考えてみた。パパはママと逆に私をお兄ちゃんに重ねて見ている気がした。だから、腫れ物に触るみたいに距離を置いている。それは一見やさしく感じるけれど、そう感じている私はパパを見下している。圧倒的に見下している。

多分、パパは私がお兄ちゃんみたいになることを恐れている。それが怖いから優しさで武装して接しているだけだと思った。

昔使ったままのリールを見つけた。スプールからラインをむしるように出してみる。

スプールという軸を失ったラインは、スプールに巻かれていた時を思い出しているかのようにくるくると幾つもの弧を描いた。スプールというお兄ちゃんを失った私たちは、お兄ちゃんを求めてくるくると彷徨い続けてみるしかないと思った。

ラインが古くなり過ぎているからだろうか、ちょっとした力で引っ張るだけでパチンと千切れるように切れた。私はその行為をスプールに巻かれたラインがなくなるまでやり続けた。

 

いろいろ狂ってみたけれど、ママに言い出せないまま眠ってしまって朝を迎えた。スマホの目覚ましは朝5時50分に鳴った。いつもの日常を迎えた私は、バレー部のジャージに着替えて、リビングに降りてママにおはようと言って、ママの作った朝ごはんを適当に食べて、玄関の扉を開けて自転車に乗って飛び出していつもの日常を装った。

今日、私は練習にいくつもりなんてない。断固としてない。パパやママに交渉権はあるけれど拒否権を与えるつもりはない。お兄ちゃんが人生をリタイアしたのなら、私にだってリタイアする権利はあるのだから。

だからバックの中に練習着と汗ふきタオルとパパの押入れから拝借した4ピースのロッドとリールと小さなワームケースを詰めて駅を越えて野池を目指した。朝練が終わるまでの間、釣りして時間を潰してから学校に行こうと計画している。

なんで釣りになったんだろうと振り返ってみた。多分、それ以外に時間を潰せる選択肢を知らないからだと思った。早朝に女の子が野池で釣りをしている光景を想像するだけで、なんだかおかしくて笑ってしまった。なんだか男っていいなって思う。男と釣りは連想できるから。連想できるから、釣りボーイなんてネーミングが生まれない。

 

お兄ちゃんのアンタレスを試投して以来、釣りに行ってないことを思い出した。だから、丸々3年は釣りをしていないことになる。それでも私は近くの野池のルートをはっきりと憶えていて、フックを結ぶ方法も憶えていた。もちろんキャストも憶えていてすぐに釣りができた。

だけど、恥ずかしかった。バレー部の赤色のジャージを着て釣りをする女子高生。背中には高校の名前につづいて排球部と縦に刺繍が大きく縫いついている。ジャージを脱いだら半袖になるから日焼けが嫌でジャージを着続けている私は、散歩をしているおじいちゃんやおばあちゃん。ワンコを散歩させている人や通勤のサラリーマンの視線を感じるのが嫌だった。私のことを知らない人ばかりなのに、気恥ずかしくなってしまう。本当に嫌になったのは私とは違う女子高生に見られた時だ。それ以降、私は人に見られることを避けるように草の生い茂った隠れ場を見つけて釣りをした。おかげで、白いランニングシューズの裏は泥だらけになってしまった。

釣りを終えて駅に向かって電車に乗った。朝練の時間帯と違って制服姿の高校生がたくさんいて、私のようなジャージ姿、しかも赤色のジャージを来た女子高生なんていなくて、本当に恥ずかい思いをして登校した。もう絶対にジャージなんか着ないと決めた。

結局この日も私はママに部活を辞めることを伝えられなかった。次の日、朝練に行く素振りをして野池へやって来た。制服はジャージの中に着込んでいるから、脱げばいい。

釣り場についた。早く投げたくてたまらない。昨日はシンカーを持ってくることを忘れていたから、ノーシンカーで攻めることしか出来なかった。だから今日こそはブラックバスを本気で釣るためにシンカーの入ったケースをパパの押し入れからくすねている。今日はダウンショットでボトムを攻めてみようと思って準備していると、背中の方から誰かが私の名前を呼んだ。

 

「露木だろ?」

背中に冷水を浴びせられたように驚いてしまった。たぶん、変な声が出たかもしれない。とりあえず声が聞こえた方に振り向くと丸坊主の少年?いや、同じ高校生?あっうちのバスケ部の・・同じクラスの田中だった。

田中は何してんだ?って顔をしている。いや、こちらこそお前何してんだよ!だ。まぁでも、あれだ。田中はクラスで一番喋りやすい奴だ。そんな田中がイケメンだったら尚更いいのにと思う。

「なんだ、田中じゃん。何してんの?」

「ランニングだよ。お前こそ、俺の近所で何してんだよ」

田中はまだ疑惑の顔を浮かべている。

「釣りに決まってるじゃん」

「お前、朝練は?」

あいつ。ズバリ聞いてきよった。どうしようか迷ったけれど、正直に言うことにした。

「行かない。辞めようと思って」

「それで、時間つぶしてんだ」

「そゆこと」

「女でも釣りするんだな」

「もしかしてバカにしてんの?」

「いや、そういうことじゃない。昨日あそこの茂みで釣りしてただろ?絶対上手いだろうなって」

見られてた。しかも同じ学校の同じクラスのしかも男に。赤い私を見られてた。恥ずかしい。

「あんた、昨日の私見てたの?ストーカーか何か?」

「ちげーよ。目がいいだけだよ。てか、あんな目立つジャージ着んなよ。うちの女バレってバレバレだぞ」

「ふーん」

「ふーんって何だよ」

「ふーん」

「なんだよ」

「絶対学校で言うなよ。言ったら田中の家放火してやる」

「言うわけねぇだろ。それに放火はこえぇわ」

 

バスは釣れなかったけれど、田中と喋って時間が潰れた。ちなみに、田中はこの野池のすぐ近くに家があるみたい。放火するって言ってしまったから、田中は住所を教えてくれなかったけれど、明日こそは田中の家を特定しようと思ってる。そう考えていた矢先、学校に行くと先輩に呼び出された。明日は必ず朝練に来いと言われた。決して辞めろとは言われなかった。そう言われた方が本当に楽だったのに。結局今日もママに言えなかった私は明日も野池に向かう。

田中は私が来るよりも先に来ていて、「おはよう」と言ってきたから「おはよう」と返した。田中の横に若干の距離を置いて座った。彼氏と間違えられたくはない。いつ何時もこれ以上知っている人に見られたくはない。

「俺さ、部活辞めようと思ってさ」

「いきなりどうしたの?」

「露木が昨日、カミングアウトしたからな。同等のレベルの内容を喋ろうと思っただけ」

「ふーん」

「うちの親、離婚するんだってさ」

「ねぇ田中、やっぱり相談する相手、間違えてない?」

「いや、間違えてない。・・はず」

「離婚したら、どっちの方・・パパ、ママどっちに田中はついていくの?」

「母親のところから。親父の不倫が原因だし」

「いろいろあるんだね。どこの家族も」

「露木の家も何かあるん?」

「お兄ちゃんが引きこもり」

「・・マジで・・」

「マジ。しかも3年間くらい引きこもってる」

「お前のところも苦労してんだな」

「苦労しているかまでは分かんないけどね」

「俺は多分、学校も辞める」

「辞めてどうすんの?」

「バイトしながら通信制で高校卒業目指すかな」

「マジ・・」

「マジだよ。まだ担任しか知らないから、みんなに言うなよ」

「言う訳ないよ」

「言ったらお前の家、放火するから」

「その前に田中の家を放火するよ」

「その目、怖いからやめろって」

 

田中と雑談をしていたら、釣りをすることを忘れていた。

何もないように人は見せかけて、人は必ず闇を抱えて闇を見せないようにして生きている。なんだか救えないなぁーって思って笑ってしまった。

「お前、何笑ってんの?マジで怖いぞ」

「ねぇ、田中」

「なに?」

「あんたが高校やめても、私はあんたのことを忘れないから」

「うん。ありがとう」

 

私はやらなければいけないことを思い出した。何か喋ろうとしていた田中を放っておいて、サドルにまたがる。自転車のペダルを思いっきり踏み込んで、速度を早める。曲がり角が多いせいで何度も何度もブレーキを掛けて、バレー部仕込みの足の筋力を使って一瞬にして速度を上げる。

 

家の玄関を開けると、ママが驚いた顔をしていた。「どうしたの?忘れ物?」という言葉を無視して私は階段を登っていく。登ったすぐ目の前のドア、私の部屋の横の部屋、お兄ちゃんの部屋の扉をノックする。

 

「お兄ちゃん、今から釣り行こう!」

返事はなかった。けれども扉の鍵は開いていた。私はノブを回して扉を開けた。

お兄ちゃんの部屋からはなんだか酸っぱい匂いがした。けれども部屋の中は3年前と変わらなかった。ロッドスタンドが置いてあって、そのスタンドの根本に銀ピカのアンタレスが置いてあった。宇宙人のウンチだと今でも思ってしまった。

お兄ちゃんは全く日焼けをしたことがない真っ白の肌をしていた。顔からは筋肉がなくなったような顔になっている。シュッとした顔立ちをしていたお兄ちゃんはもうどこにもいなかった。お兄ちゃんは驚いた表情で私を見つめている。

「起きてるなら返事してよ!釣り行くよ!」

私はロッドスタンドからロッドを引っ張り出して、アンタレスを取り付ける。そうしていると、「今から?」と小さな汚れのない声が聞こえたから、その声に応える。

「今から!じゃないと、アンタレス貰うからね」

扉の方から階段を登る音が聞こえる。これはパパの足音だ。

パパが悪いわけじゃない。ママが悪いわけじゃない。お兄ちゃんも悪いわけじゃない。きっと私もそうだと思う。

悪いのは・・わからない。

アンタレスを取り付けた2ピースのロッドをお兄ちゃんに差し向ける。ついでにルアーボックスもお兄ちゃんの膝下の布団の上に置いた。

パパが驚いた顔をしてお兄ちゃんの部屋におそるおそる入ってきた。

「明日菜・・どうした?」

「今からお兄ちゃんと二人で釣りに行ってくる。それだけだよパパ」

私はパパを睨むようにして叫んだ。

 

 

今なら、お兄ちゃんと話ができると思った。あの時の話の続きを。

お兄ちゃんはアンタレスを見つめていた。

その白い指はアンタレスを強く優しく握っていた。