アスファルトの現実。

アスファルトの現実。

どんな過程で生きていけばこんなにも傲慢で醜くて劣悪な大人になれるのだろうと殺意というのか憤りになるのか分からない感情だけが高まっていく日常の重なりで、俺はこいつと離れたくて仕方がない。

ましてや、飲み会の席となると嫌で嫌で仕方がなかった。嫌で仕方がない俺は、宴席から離れて喫煙所に向かって歩いていく。

どこが楽しいのだろうか全くといって理解できない。喫煙所へ向かう短い道のりは、会場がホテルだからだろうか、やたらスーツを来たサラリーマンと中国人観光客が多かった。分煙されている喫煙所へ入ると先輩が先行していて、笑いながら「おつかれ」と言ってくれた。俺は胸ポケットからラッキーストライクを取り出して煙草に火を付けた。

 

「お前、またボクって言われてたな」

「そうなんすよ。殺してやろうかと思いました。むしろ、今すぐ」

あいつは俺のことを「ボク」と呼んでくる。「ボク、これ間違えてるよ」、「ボク、これはちゃんとやったのか?」、「ボク、これくらいやってもらわないと困るよ」。ボクボク言われて撲殺の略称なのかと思い巡らせてしまう時があるほどだ。せっかく煙草を吸いに来たのに、あいつのことを思い出してしまった。嫌になる。

「お前、入って何年になるんだっけ?」

「来年の4月で4年目になるっす」

「じゃあ、上原さんと3年もずっと一緒にいるんだ・・よく耐えてるよな。俺だったら辞めてるかも・・」

毎年のように上原の部下となった新人が半年も経たないうちに辞めてしまう曰く付きの上司の下で働くようになって3年が過ぎようとしている。おかげで、俺より遅くに入ってきた新人たちは別の優しい上司と組んで楽しそうに営業に出向いている。あまりにも不公平な世の中だと俺は俺自身を恨んでしまう。

「そんなことないっすよ。先輩だったら、もっと仲良く付き合えてると思います。俺の場合、もう末期です。冷戦っす。もちろん、俺がソ連の方でもうすぐ解体されるだけなんですけどね・・」

「あれだけ仕事ができて、癖のつよい人はなかなかおらんよ。きっと春になったらどっちか異動になるんやから、それまで上原さんのとこで勉強しとけば相当仕事できる人間になってるんやない?」

「反面教師にしかならんっす」

「それでいいんやないかな?」

「俺が耐えれればいいんですけど・・」

そう言ってしまったが、もう心はギブアップしていて窒息寸前というよりは、窒息して意識がない状態だと俺は思った。

先輩と一緒に宴席に戻ると、俺の席だったはずの座布団には1年下の後輩が座っていて、あいつに媚びを売っていた。あいつはそんな媚びを媚びと思っていないようで自慢げに偉そうに後輩にご教示していた。俺はそんな二人を無視して箸とコップを取って持ち場を移動した。そう行動してしまう自分が嫌になる。後輩のように面白くて誰にでも好意的に喋ることができたら、俺の職場環境も良くなっていたのかもしれないと、最初の努力が足りなかったのかもしれないという後悔が押し寄せてくる。たいして美味しいとも思わないコップに残ったビールを飲み干すと、身体の熱と同じくらいに温くなっていてますます美味しくなかった。俺は、未だに酒が美味しいとこれっぽっちも思わない。むしろ、アルコールが身体に入ることでしか話せないことがあるという人間の気持ちが理解できない。冷静さを失ってまで話す原理が理解できなかった。

瓶ビールを持って俺の横に課長がやってきた。「おつかれさん。もう顔が真っ赤になってるぞ」と言って座ったので、「ありがとうございます」と言ってコップにビールをついでもらった。課長はレモンチューハイの入ったジョッキをテーブルに置いてから座った。せこいと思った。せこいと腹の内で思っているけれど、並々に注がれたビールの半分を取り敢えず飲み干す。

「田中、おまえ最近よく飲んだくれるらしいな」

風の噂、つまり事実を告げられて俺は「はい」と頷く。最近ロクに接待の二次会すらも行かずに泥酔してタクシーで家に毎回のように帰っている。それを説教したいのだろう。俺は課長の優しいような説教を聞くふりをしながら苛立ちをゆっくりと増幅させていく。ねぇ課長。毎回の接待であいつから自己顕示欲の道具にされる気持ちをあんたに理解できますか?できねぇでしょうし、言ったところで俺がどの立場からも弱いでしょうから言っても意味がないと思って言わないですけど、毎回あいつから熱の入ったふりをされながら説教される身にもなってくださいよ。お客さんからしたら、俺が仕事ができない人間として見られて「頑張りなさい」と言われながらビールを注がれるだけで、あいつの株ばかりが上昇するだけじゃないですか。俺、ビールとか酒の類が大嫌いなんですよ。もともと酒に弱いですし。ねぇ課長、俺の取引先ですよ。良好な関係を築いている得意先っすよ。にも関わらず、あいつの評価が上がって俺の評価が下がるっておかしくないですかぃ?

そんなことを考えている自分が嫌になった。どうにでもなりたくて俺は課長が注いだビールを飲み干した。飲み干したら飲み干したで課長は「あまり飲みすぎるなよ」と言う。だったら注ぐな。

いつものパターンだ。そう思った途端に軽い吐き気がした。別に急な吐き気を催した訳ではないけれど、トイレへと向かった。用を足して、水も流さずに吐こうと準備体制が整っただけで身体が全力で収縮させてビールを吐いた。俺の中に飲まれた課長のビールはまだ体温に馴染んでいないようで少しだけ冷たかった。こんな感じで頭の中のことが全て出ていってくれたらいいのに、と心の中で強く強く願った。

うがいを済ませて、宴席に戻ると俺が移動して座った席には後輩が座っていて残り物にパクついていたので、食欲なんてないけれど胃の中は空っぽだったから、その横に座って胃の中を満たしてみる。

「先輩、顔あかぃっすよ」

「あー結構飲まされた」

「ウコンいります?買ってきますよ」

「いや、いいよ。俺なんか気にせず、食え!今しか食えねぇぞ」

2年前の俺はこんな感じだったのだろうか。こいつより、もっと仕事ができていたはずだ。その頃はもっとあいつともうまく仕事が出来ていたはずだ。いつからこうなった。悪いのは俺か?あいつか?仕事ができているのに、なぜこんなに俺は苦しいんだ。仕事ができないのに、なんでこいつは俺よりも楽しそうにしているんだろう。

嫌になる。いつから俺は崩れたんだろう。修復不可能なくらいに。一つ一つの積み重ねによって今という成れの果てが形成されていることは分かっているつもりだ。だったら。続ける意味があるのかという自問自答になっていく。

軽く腹が満たされて若干吐き気がきた頃になって、やっとこの飲み会が終わるようで幹事がこの場を終わらせようとしている。もうとにかく眠い。全てどうでもいい。明日、会社やめようかな。そう思ってから、会社を辞めたらどうなるのかを考えるようになった。その現実の先のことを考えると何もなくて怖くなった。

頭に何か軽いモノを投げつけられた。多分、おしぼりだろう。そのあと、すぐに後輩が「先輩、先輩、上原係長っす」と小声で言われて我に返った。どうやら俺は寝ていたようだ。あいつと目が合ってしまった。もう睡魔はなかった。

あいつは俺の横に座って「おい、ボク」と言う。焼酎くさい。

「・・・」

「アスファルトってな、水が染み込まないそうだ。だから、雨降っても地下に水がたまらないからよ・・日本中の地下水が枯れてきてるんだってよ・・。分かるか?あ?」

「・・・」

そこで一本締めの合図があって、あいつからの説教は寸断されて解散となった。

もう消えてなくなりたい。心からそう思った。

 

 

それから2ヶ月が過ぎた。

未だに悩み続ける日々だが、俺は未だに会社を辞めずに会社の不平不満を言いながらも会社から給料をもらい続けながら、かろうじて社会人として生きている。

今日は接待ではないけれど、得意先の人が釣りが趣味ということもあって釣りに駆り出された。

朝早くからあいつと合流してあいつの車に乗って港までたどり着く。港の駐車場で得意先の人とも合流して船に乗って、なんだかよくわからないうちに船はエンジンを唸らせながら陸から離れるのを喜ぶように進んでいく。

船室の中は真っ暗にされていて、みんな寝ているようで誰も喋る人がいなかった。左隣に座っているあいつも何をしているのか分からない。

なんだか場違いなとこに来たような気がする。俺だけアウトドア用のウェアを来ていて他のみんなはダイワとかシマノの釣り用のウェアを着ていたからだろうか・・今すぐにでも帰りたくなってしまった。

 

今日はタイラバという釣りで真鯛を狙うそうだった。

船底が波にぶつかり揺れるせいで、眠ることもできずにしばらく寝ているふりをしていたら、エンジンの音が小さくなった。船室に明かりが付き、準備を始めるようでみんなが外に出ていった。

「いくぞ」

と言われて俺も外に出る。外は今まで見たことのない朝焼けの大海原が360度広がっていた。

船長の「どうぞ」とのアナウンスで俺はあいつからレクチャーを受ける。見たことも聞いたこともない丸くて赤い玉にヒラヒラしたゴム繊維の付いた物体を海に沈める。あいつからはボタンを押してラインをフリーにして着底したら巻くだけ。と言われた。

そのままのとおりにしていたら、ラインが止まった。これが着底か。そう思って巻き続けると、ガツガツガツとした衝撃を感じた。

「おぉ、それ乗ってんぞ!」

のってる?

「どうしたらいいっすか?」

「そのまま巻け!」

ひたすら衝撃を感じながら巻く。気がついたら海の奥底から銀色のシルエットが螺旋を描くように浮上した。その銀色は海面が近づくにつれてピンク色に濃ゆくなっていく。横であいつが「マダイやな」と言った。

マダイは船長の網にすくわれてバタバタと力強く船の床を叩く。

「田中ぁ!ようやった!綺麗なマダイやん!」

嬉しそうなあいつの顔にうまく馴染めずに、俺はどうしていいか分からなかった。

 

その後もマダイは釣れ続けた。60オーバーのマダイは釣れなかったけれど、生まれて初めてのビギナーズラックというものを経験している最中だからだろうか、俺は上原よりもマダイを釣っていて、なんだか楽しくてひたすら釣りを続ける。

アタリはあるものの、掛かることがなかったりした。スカートが千切れていたりしたら上原が付け替えてくれた。

「釣り、好きなんすね」

「知らんかったか?確かに仕事しかしてないもんな。お前とは」

一つだけ、分かったことがある。俺はこの上原という人間の笑顔が見たかったのだと。上原から褒められたりよくやったと言われることを求めていたことを今、この船の上で理解した。

 

「俺さ、釣り好きなんだけど酔うんだよ」

「それなのに、上原さん釣りが好きなんすね」

「なぁ、田中。会社続けろ。絶対辞めるな」

 

 

そんな春。

上原は課長へと昇進して、東京の本社へ異動になった。

俺は与えられた恩を今になって理解した。