せめて笑えば空は晴れるか

せめて笑えば空は晴れるか

「お前さ、エイカちゃんと別れたなら言えよな。男と暮らしてるなんて知らなかったぞ」

ちょうど10日前に別れた彼女が新しい彼氏を作って同棲していることを、ガヤガヤとした居酒屋の喧騒の中で、どうせ悪いことに決まってるから聞きたくないと言っているのに親友のショウから悪気もなく言い放たれた衝撃の目撃情報は、案の定、それが紛れもなく純粋無垢な予想どおりの悪い知らせであって、俺は圧倒されるがままに時間が止まったかのような衝撃を受けた。

思考不全となってしまった思考は、それでもゆっくりとブレーカーを一つ一つ立ち上げるように一つ一つ順番に復旧してはいくけれど、一つ一つブレーカーを立ち上げる度にその都度彼女に対しての様々な熱を帯びた感情を思い出してしまって、俺はこんなにも未練というか彼女に対する気持ちが全く朽ちることなく生き残っていることに将来の圧倒的な生きづらさを感じた。そして、思考が完全復旧した後に彼女の不幸をかなり強く願った。

繁忙としている時間だろうか、頼んでもすぐに来なかったから催促してやっと届いたビールをジョッキを重ねた後に一口飲んで、そんな思い全てをもろとも喉奥へ何度も流し込んではみたけれど、案の定、精神的な衝撃諸共飲み込むことはできず、別れてからの間、少しでも復縁する可能性を模索したりその術を考えたり、そんな希望を持って10日という時間の幅を絶望と拙い希望の糸を握りながら生きていた後にショウから聞かされた衝撃のせいでビールの味を感じることができなかった。

 

本来、この飲み会の場はどうすればエイカと元に戻れるか、というショウへの相談の場だった・・はずなのに、別れたことを知らなかったショウによる開口一番に衝撃の事実を突きつけられ、ショウもショウでつい最近別れたことをその後すぐに知ることになり、「マジごめん・・」という感じになってしまって、結局、二人とも”相手がすでにいる”という決定的不動な事実がある限り、どうもこうも何も助言も後押しができるような状況ではないことを理解しているから、その後はその話題が発展することなくいつものように仕事の話や近況を言い合って終わった。

 

会計が終わって、「ちょっと待って」とショウに言ってからトイレへゆっくりと歩いて、トイレに入ってからは半ば走りながら扉を開けてトイレに溜まっている水をじっと眺めてこみあげる吐き気を開放した。

1回目の嘔吐では苦しかっただけだったけど、2回目か3回目の嘔吐で俺を振ったのは俺に愛想を尽かしたわけではなく俺よりも好きな男が見つかっただけだということが分かって、少しでも別れた後でもエイカの幸せを願おうとしていた善意をゲロと一緒に吐き出してやった。ふざけんな。

口をゆすいで何もなかったかのようにトイレから出た。居酒屋から出るとショウがスマホを見ていた。外の空気を吸うとまた吐き気がこみ上げてきた。

「ツヨシ大丈夫か?タクシー呼ぼうか?」

あーばれてるな。と思いながらも、ショウに平常心を装ってそれを断って、「歩いて帰りたい気分だから」とまた断って、「また今度」と言って、いち早くショウの見える視界から離れて角のビルを曲がり、そのビルと奥のビルの隙間に入ってもう一度嘔吐した。

 

付き合って2年まではいかないけれど、それでも俺とエイカとの付き合いは1年と半年以上が経っていて、付き合ってすぐに同棲を開始していたから、それくらいの期間、俺とエイカは一緒に暮らしていたことになる。

俺たちはたいしたケンカもなく、たいした価値観の相違もズレもなく、きっと、このまま結婚までたどり着くんだろうな。そんな、結婚というステージがどんな世界なのかすら分からないけれど、俺の将来の予想はなんとなくそうであるように思えて、そう思えるようになってから、指輪を買うお金を貯めようか貯めまいか考えていたのが2ヶ月前の俺であって、この結末は予想とは全く違った現実で、これから先を一人で生きるという現実をまだうまく理解できていない。できるはずがない。

さっきトイレで胃の中がからっぽになるまで吐いたから、ここでは全く吐くことができなかった。ただただこの苦しさに乗じて無理やり涙を出そうと思ったけれど、目の奥から絞られるように出ようとした涙の成分は雫になることはなく眼球が潤っただけでやがて乾いた。

 

「あのさ、・・」

「うん・・」

「やりたいことをやったらいいさ、がゴウ君の口癖じゃない?」

「うん。多分・・そうだけど・・」

「だったらさ、わたしね。ゴウ君と別れたいの」

 

やりたいことをやる―――。その言葉の意味合いに離別するという意味合いの幅まで含まれるとは思いもしなかった。

「ゴウ君と一緒にはいられないの・・」そう言うと、彼女は泣き出した。理由を聞いた。けれども理由は言えないようで答えてはくれなかった。

結局、俺は別れることを選んだ。

彼女の選択を尊重した。やりたいことをやったらいいさが口癖の僕は彼女を止めることができなかった。彼女はその後すぐに家から飛び出した。俺は何もできなかった。ずっと頭の中で彼女のやりたいことをやれないように論破する方法を考え続けていた。それができないと追う資格はないと思った。

結局、その日は眠れず彼女は帰ってこなかった。待ってはみたけれど夜があけて朝を迎え、俺は仕事に行く。そして、家に帰りつくと彼女の荷物だけが消えていて、もう、俺のことをわざと間違えて”剛”ツヨシではなくゴウと呼ぶ唯一の人がいなくなったことをあらためて知った。

 

玄関のドアノブに触れた――。

その瞬間にそれだけの容量を一瞬にして思い出したくせに、今までどうやって帰ってきたのかを思い出すのには苦労して、思い出せないまま部屋に入ってフローリングに寝転んで狭い1Kの天井を眺めた。ベランダのカーテンを開けっ放しにしているからか、車のライトの乱反射した光の線が排気音のドップラー効果と比例して天井を動かしては消えていく。

脈打つ血流のせいで脳が膨張して頭痛がひどい。ただ、意識だけが極端に尖っていた。たぶん、これは怒りだ。エイカが使っていた3段ボックス、脱衣場の衣装ケース、その他もろもろのエイカの分身のような抜け殻を玄関の方へまとめていく。分身に触れると無意識に思い出が脳内を走っては怒りを思い出して片付けていく。家に帰り着くまでは眠かったのに、睡魔はどこにもなかった。何時に帰って来たのか分からないけれど、夜中の3時にはエイカの抜け殻たちはすべて一画に整理することができた。

睡魔がやって来ないまま朝を迎え、酔いが完全に醒めたようで感覚が通常の少しだるい体に戻った。このまま家にいると、またエイカの残像に囚われる気がして嫌だった。やりたいようにやる・・が俺の口癖か・・。一人でぼやいてみる。だったら、とことん逃げてみようと思った。

 

エギングとアジングの道具だけをリュックに入れて、近所のコンビニで食料を調達するとリュックの容量を完全に満たした。そのままバス停まで歩いてバスに乗って、しばらく国道を東に走った後にタクシーをつかってフェリー乗り場までたどり着いた。

潮の香りが強いフェリー乗り場の自動ドアの前に微動だにしない香箱座りした野良猫を素通り待合室に入って往復券を買った。あと10分で乗船が始まるとアナウンスが鳴っていた。

待合室の椅子に座った拍子に気を抜いたふとした瞬間にエイカのことを思い出して、どれだけエイカの存在が自分にとって身近で日常的な存在だったのかを知る。仕事以外、ほとんど一緒に生活していた片割れはもういない。

乗船案内のアナウンスが流れたので、片道の券を船員に渡し、フェリーに乗り込む。エンジンとスクリューの回転する音が大きくなって、ホーンの爆音と共にフェリーは本土から離れて島へと向かった。未だ見ぬ景色に向かうからだろうか、意識が高揚して表情がにこやかに和らいでいるのが分かる。同時に”さよなら”という言葉が浮かんだ。エイカは俺とさよならするとき、こんなにも意識が高揚して開放感に満ちていたのだろうか?別れて少し経過した状況で新しい男がいるのなら、今の俺のような気持ちだったのかもしれない。

では、だったらあの涙の意味はなんだろうか――。

 

フェリーは15分で島へ到着するという。

たった15分という時間なのに、陸から海、海から陸という隔絶された交通手段のおかげだろうか、別世界へ、どこか日本ではない世界へ向かっている体験をしているみたいだった。

どこでなにが釣れるのか分からないけれど、島の待合室を出てすぐの波止場でアジングの準備をして、右回りにランガンすることにした。

潮の流れは早く、海鳥もたくさんいるのに夕マヅメまでには一切釣れなかった。それでも、日が暮れて夜になって常夜灯の近くで0.3gのジグ単を投げていると前アタリもなくひったくっていくアタリがあって、フッキングした瞬間に横に横に物凄いブルブルとした震えをロッドが捉えた。アジだったら大きいな、そう思っていたけれど、ランディング寸前で魚の正体がサバだと分かって、キャッチしたら30センチを超えるサバだった。この日1尾目の魚がサバで、生まれて始めて釣ったこともありかなり嬉しい。その後、1尾目と同じくらいの30センチ前後のサバが連続で釣れて、そんなサバに混じって20センチ前後のアジが釣れた。おかげで、今ヒットしている魚がサバなのかアジなのか引き味によって見分けられるようになった。

サバも嬉しいけれどアジが釣れたことは本当に嬉しい。それに久しぶりの釣り、それにアジまで釣れた。アジは尺までにはいかないけれど、この大きさが釣れたことは正直嬉しい。久しぶり過ぎて喜び方が思い出せない。闇夜に一人、社会人の男一人がひっそりと高揚が高まって「よっしゃ」と声に出る。とりあえず、写真だ。スマホで写真を撮って保存する。嬉しい。嬉しいのに、この嬉しさが今の俺が抱えている辛さを払拭することはなく若干中和されたに過ぎないことを自覚した。

その後、時合いだったようで数十分の間、釣れなくなるまで釣り続けた。釣れることは嬉しい。嬉しいのに悲しい。俺は今一体何がしたいんだろうか。今、俺は此処にいていいのだろうか。不意に湧いた疑問に答えることができなかった。

今の俺には何もない。何もないから何かしたいわけでもない。でも、何かしなければ俺は俺ではいられなくなってしまう気がする。俺が俺でいられる時間は今この時間であって、昨日までの俺であってはならない。考えが定まらなくなってしまって、昨日、あまり眠っていないことを思い出した。

しばらく横になりたくなって、パッキングを解いてソロテントを広げて設営し、その中にシートを敷いて寝袋を置く。何か違う気がして、結局はテントには入らずに波止場のコンクリートの上にシートを敷いて、その上に寝袋を着込みむき出しの夜空を眺めながら時折目をつむった。空の黒さにしびれた。満面の黒。そしてところどころ煌めく星の数。綺麗だと思った。綺麗だねと相槌を打つ相方はもういない。

 

朝まずめ、島の中学生がアジを使って泳がせていた。少年たちに聞くと、どうやらヒラマサが回遊してくるらしい。アジングという超ライトな装備でヒラマサを狙う訳にはいかず、けれども、もし喰ってきて釣れたら最高だよなって思って、超ライトな装備でアジを泳がせる。今、思い出してしまったけれど、さっきまでエイカの残像が消えていたはずだ。俺は今一体何がしたいんだろうか、その問いが分かった。かき消したいのだ。自分が自分であるために。自分がエイカのモノではないように、エイカが自分のモノでもないように、俺は俺だけのモノになるために。

期待で胸を膨らませたヒラマサの回遊はなく、今持っている装備でところん遊び尽くした俺は満足して本島への第一便のフェリーで帰った。こんなに楽しんだのに、まだ日曜日がまるまる残っていることが嬉しい。

 

家に戻りシャワーを浴びて一眠りして遠征に持っていった荷物を片付けていると、昨日島へ行く前に買ったパンに全く手をつけずに残っていることを思い出した。昨日はカロリーメイトだけしか食べていない。何か食べないと。そう思ってはいるけれど、別れて以来、あまり食欲がないのも事実だ。昨日買ったパンに手をつける意欲がないからそれを冷蔵庫に入れ、そのかわりに冷蔵庫から昨日釣れた魚が入ったジップロックを取り出す。

シンクの食器類を片付けて、血抜きしたサバとアジをさばいていく。きめ細かなサバの鱗はほとんどが剥がれていたようで、鱗をとろうとしたけれどあまり落ちなかった。それに、アジよりも中骨が多くてそれを抜くのにアジよりも面倒だと思った以外に何ら違和感はなかくアジのように捌くことができて、刺し身ができた。そのあと、酒と醤油とみりんとしょうがとわさびとにんにくで漬け醤油をつくり、刺し身をなじませる。しばらく寝かせている間にご飯が炊きあがった。

炊きたてのご飯を丼によそい、その上になじませた漬けた刺し身を乗せ、さらにその上に黄身を落としてまぜて食う。リュウキュウ丼というやつ。めちゃくちゃうまかった。一口目を食べ終えて、ガッツいた。もう、なんかどうでもいいくらいにめちゃくちゃうまかった。別れて以来、全然なかった食欲が味覚に刺激されてもっと食べろと言っているようだった。

ただ食べただけだ。昨日釣った魚を少しだけ調理してご飯にぶっかけて食べただけだ。それなのに、満腹になったからだろうか、俺の食欲以外の部分も満たされている気がしてならなかった。

エイカのことを不幸せを願ったり幸せを願ったりいろいろあったけれど、それすらも今はどうでもよくなって笑えた。きっと、これからも悲しんだり悶えたりすることもあるだろうけれど、俺は自分で生きて自分で楽しんで自分で苦しんで行けることを噛み締めようと思った。俺はこれからもきっと君のことで苦しむ。だけど、生きていける。君がいなくても絶対に。

せめて笑えば空は晴れるか。

そう思った。